異世界対策マニュアル

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床に描かれた幾何学模様の魔法陣が、網膜を焼くほどの純白の光を放った。意識が浮上する感覚は、まるで麻酔から覚める時のそれに似ていて、頭の芯がじんと痺れている。俺、田中健司(たなかけんじ)と、二年B組のクラスメイト三十名は、昨日まで通っていた高校の教室から、明らかにここが地球上ではないと断言できる場所に立っていた。

「まあ、マジかよ……」

誰かが漏らした呟きは、全員の心の声を代弁していた。目の前には、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが宝石のような光を散らし、磨き上げられた大理石の床が俺たちの場違いなスニーカーを映している。玉座と思しき豪奢な椅子には王様然とした髭のオヤジが座り、その隣には、これまたお約束のように、蜂蜜色の髪をした見るからに「姫」な美少女が心配そうな顔でこちらを見つめていた。

「おお、勇者様方!よくぞおいでくださいました!」

姫が鈴の鳴るような声で、しかし切羽詰まった表情で一歩前に出る。両手を胸の前で組み、その瞳は潤んでいた。長々しいお涙頂戴の演説が始まるのだろう。世界が魔王に脅かされているとか、邪神が復活したとか、そういうテンプレ展開だ。俺はあくびを噛み殺しながら、彼女の次の言葉を待った。

「この世界、エアルガルドは今、闇に覆われんとしております!どうか、どうか我らをお救いください!」

悲痛な叫び。感動的なBGMでも流れ出しそうな雰囲気だ。周囲には、いかにもな騎士たちが物々しい鎧姿で直立不動している。彼らの視線には、期待と、若干の憐れみのような色が混じっているように見えた。哀れな異世界の若者たちよ、我らのために命を懸けてくれ、と。

その荘厳な静寂を破ったのは、電子的な通知音だった。

ピロン♪

俺のポケットの中のスマホが鳴った。ほぼ同時に、クラスのあちこちから同じ音が立て続けに響き渡る。ピロン、ピロリン、ピコン♪。まるでオーケストラの前衛的な演奏のようだ。一瞬、姫の言葉が止まり、彼女の眉がぴくりと動いた。玉座の王も、屈強な騎士たちも、何事かと目を丸くしている。

俺はためらうことなくスマホを取り出した。画面には一件の通知。「【緊急警報】異世界転移の可能性を検知しました。直ちに対策マニュアルに従ってください」。送り主は、日本政府・異世界事案対策本部。

「うわ、マジで来たよ、これ」
「俺も俺も。政府の仕事早すぎだろ」

クラスメイトたちが次々とスマホを取り出し、画面を覗き込む。感動的な雰囲気は一瞬で霧散し、そこには現代日本の高校の教室と何ら変わらない光景が広がっていた。皆が猫背気味に小さな画面に集中し、指先を忙しなく動かしている。姫と王様、そして騎士団は、完全に置いてけぼりだった。彼らの顔には「え、何これ?」という困惑がありありと浮かんでいる。

「皆様、どうかお顔を上げて我らの話を……!」

姫が必死に呼びかけるが、その声は誰の耳にも届いていない。俺たちのクラス委員長、佐藤綾香(さとうあやか)のメッセージが届いた。
『クラス内限定のローカルサーバーを立てたよ~!全員、指定のURLにアクセスして。臨時クラスルーム始めます。パスワードはいつもの~』

数秒後、俺のスマホのWi-Fi設定画面に「2-B_EMERGENCY_NET」というSSIDが表示された。さっそくチャットにログインする。

『委員長乙』
『マジかーたまにあるとは聞いてたけどうちのクラスがなるなんてなー』
『やっべ俺のバッテリーほとんどゼロだわ』
『クラスルーム終わったらバッテリー一個貸すよ』
『頼む』

クラスメイトたちが次々に書き込んでいく。佐藤委員長からの書き込みが固定でトップに表示される。

【佐藤綾香】:皆さん、状況は理解している通りです。政府からの通知にもありましたが、これは典型的な「クラス転移」事案です。慌てず、マニュアル通りに行動してください。まずは全員、『異世界人権保護アプリ・まもるくん』を起動。精神干渉防御(洗脳ブロック)機能をオンにしてください。強制はしませんが、強く推奨します。

俺はホーム画面のフォルダから、フクロウのアイコンが目印の『まもるくん』をタップした。このアプリは、中学に上がると同時に全国民にインストールが義務付けられたものだ。「度重なる異世界からの違法な国民召喚、及び転生誘導事案に対し、政府は断固たる措置を取る」という首相の演説を思い出す。今や、異世界からの国民保護は、日本の安全保障の最重要課題の一つとなっていた。

アプリを開くと、シンプルなメニューが並んでいる。「緊急SOS発信」「精神干渉防御」「状態異常報告」「スキル情報連携」。俺はまず「精神干渉防御」のトグルスイッチをオンにした。画面が一瞬緑色に明滅し、「防御フィールド展開中」の文字が表示される。これで、召喚主による都合のいい洗脳や魅了(チャーム)の類は防げるはずだ。

『よし、ブロック完了』
『俺もやったぜ』
『このアプリ使うことになるとは思わなかった…削除してなくてよかった……』
『実は消してしまったんだけど、やっぱマズい?』
『クラス転移でよかったな…ソフトシェアしてやるよ』
『頼む!』

クラスルームのチャット欄に、次々と報告が書き込まれていく。その間も、目の前の姫は必死に何かを訴えかけていた。

「勇者様方、なぜ……なぜ我らの声が届かないのですか?これは聖なる召喚なのですぞ!」
騎士の一人が、痺れを切らしたように声を荒らげた。「貴様ら、姫殿下の御前であるぞ!その光る板から顔を上げよ!」

しかし、その声に反応する者は誰もいない。皆、スマホの画面に釘付けだ。クラスルームのチャットが次の議題に移っている。

【鈴木誠】:緊急SOSは全員送ったか?俺はさっき済ませた。自動で位置情報も送信されてるはずだ。
【高橋美咲】:うん、送った!返信も来たよ。「救助チームを編成中。現地に到着まで推定三時間。現地の生命体と敵対的関係にならないよう、穏便に待機してください」だって。
【田中健司】:了解。つまり、下手に刺激するなってことだな。ヘイト買わないようにニコニコしてりゃいいのか?
【佐藤綾香】:その通りです、田中君。相手を怒らせず、かと言って安易に協力の約束もせず、時間稼ぎに徹しましょう。日本の救助を待つのが最善手です。

三十人全員が、完全に足並みを揃えて、異世界人たちを無視し続けている。これはもはや、一種のサイレントテロだ。姫の潤んでいた瞳はすっかり乾き、信じられないものを見るような目で俺たちを眺めている。彼女の隣に立つ王は、威厳を保とうと腕を組んでいるが、その指先が小刻みに震えているのが見えた。

「……彼らは、何を、しているのだ?」
王が、宰相らしき老人に小声で尋ねる。
「はっ、それが……我々には理解の及ばぬ道具を用いて、何らかの意思疎通を図っている模様で……」

そうこうしているうちに、三時間が経過した。その間、俺たちはスマホでソシャゲのデイリーミッションをこなしたり、ダウンロードしておいた漫画を読んだりして、思い思いに時間を潰していた。何人かは、空腹を訴えてリュックから菓子パンを取り出して食べ始めた。その光景に、騎士の一人がとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、「貴様ら、あまりにも無礼であろう!」と剣の柄に手をかけた。

その瞬間だった。

部屋の中央、俺たちと玉座の間に、空間がぐにゃりと歪んだ。魔法陣とは明らかに違う、もっと無機質で、工業的な何かが空気を震わせる。やがて、黒い長方形のゲートが音もなく開き、中から迷彩服とは少し違う、機能性を突き詰めたような特殊繊維のスーツを着た男たちが数名、静かに現れた。彼らの手には、剣ではなく、見慣れない形状の銃器やデバイスが握られている。

「日本国政府、異世界事案対策本部・在外邦人救出チームである」

先頭に立つ男が、冷静沈着な声で言った。その声には、一切の感情が乗っていない。彼の背後から、スーツを着た文官風の男が一歩前に出る。彼は手に持ったタブレット端末を一瞥すると、玉座に座る王に向かって、抑揚のない声で告げた。

「エアルガルド王国国王、並びに王国政府に対し、日本国政府は厳重に抗議する。貴国による、国際法及び次元間条約に違反する無差別国民召喚という主権侵害行為に対し、極めて遺憾の意を表明するものである」

いわゆる「遺憾砲」だ。ニュースで何度も聞いたことがある。日本政府が使う、最も強い非難の言葉。それを、生で聞くことになるとは。文官は淡々と続けた。

「召喚された我が国国民三十名は、全員、ただちに保護する。なお、本件に関する損害賠償、及び再発防止策の確約については、後日、正式な外交ルートを通じて要求するものとする。異議は認めない」

王と姫、そして騎士たちは、あまりの展開に呆然と立ち尽くしている。彼らの計画では、俺たちが涙を流して感謝し、魔王討伐の旅に出るはずだったのだろう。だが現実は、ものものしい装備の特殊部隊に踏み込まれ、一方的に外交文書を読み上げられている。魔王より先に、自分たちの国が別の国に蹂רובされかけているのだから、たまったものではないだろう。

救出チームの隊員たちが、俺たちを手際よくゲートの方へ誘導する。
「皆さん、怪我はありませんか?手荷物を確認してください。現地で何かスキルや特殊能力を付与された方は、後ほど専用施設にて検査を受けていただきます」

その言葉に、クラスメイトの一人が「あ、そういえば」と声を上げた。
「なんか、頭の中に声が聞こえて、『鑑定』と『アイテムボックス』のスキルを授ける、みたいなこと言われた気がする」
「マジで?俺、『火魔法Lv.1』だって」
「私は『言語理解』。だからこっちの人の言葉、なんとなく分かったのかも」

次々と、自分たちが得たスキルを報告し始めるクラスメイトたち。その顔には、先ほどまでの緊張感はなく、どこか楽しそうな色が浮かんでいる。
「『鑑定』とか超当たりじゃん!就職に有利だぞ、絶対」
「『アイテムボックス』も物流系で引く手あまただって言うしな。俺の『火魔法』とか、エネルギー関連企業に行けるかな?」

そうだ。スキルは、現代日本では立派な資格の一つだった。異世界から帰還した人々が持ち帰ったスキルは、産業、医療、エンタメなど、あらゆる分野で活用されている。スキル持ちは、いわば金の卵だ。今回の災難も、見方によっては大きなキャリアアップのチャンスだった。

ゲートをくぐると、そこは無機質な白い壁に囲まれた広い施設だった。俺たちは一人ずつカウンセリングと健康診断を受け、付与されたスキルの性能測定を行った。数日後、全員の安全が確認され、ようやく解散となった。

「じゃ、また明日なー」
「お疲れー。なんか修学旅行みたいだったな」

口々にそう言い合いながら、俺たちは日常へと帰っていく。異世界転移という一大イベントも、政府の完璧なマニュアルの前では、少し刺激的な社会科見学程度のイベントに成り下がっていた。

しかし、話はそれで終わりではなかった。

一週間後、俺たち二年B組の生徒と保護者全員が、政府施設に再度召集された。広い講堂に集められた俺たちの前に、先日、異世界で遺憾砲を放っていたあの文官が立った。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。先日の一斉召喚事案につきまして、最終的なご報告と、皆様への通達がございます」

文官は、表情一つ変えずに言った。
「まず、エアルガルド王国に対しては、正式な外交ルートを通じて謝罪と賠償金の支払い、及び、召喚魔法の永久破棄を約束させました。皆様の安全は、国家の名誉にかけて保証いたします」

保護者たちから、安堵のため息が漏れる。だが、文官の言葉は続いた。

「しかし、今回の事案は、国家間の緊張を著しく高める結果となりました。日本が国民保護において強硬な姿勢を示し続けることは、他次元世界との全面的な対立を招きかねない、危険な賭けでもあります。そこで、政府として、ある『政治的判断』を下すことになりました」

講堂の空気が、シンと静まり返る。

「これ以上の外交的摩擦を避けるため、そして、他世界に対し『日本の国民を召喚することは、割に合わない』という強いメッセージを送るため、今回の事案における『コスト』を、皆様に負担していただくことになりました」

文官は、手元の資料に目を落とした。

「救出作戦にかかった費用、外交交渉における諸経費、そしてエアルガルド王国に対する懲罰的賠償金の一部。これらを、原因発生の誘因、すなわち、召喚された皆様に請求いたします。一世帯あたり、金三億円となります」

「さん……おく……?」

誰かが、か細い声で呟いた。講堂が、水を打ったように静まり返る。

「もちろん、一般家庭に支払える額ではないことは承知しております。つきましては、今回皆様が付与されたスキルを国家管理とし、その運用益から三十年ローンで返済していただく、という形になります」

それは、事実上のスキルの没収であり、今後三十年間の国家に対する奉仕を意味していた。就職に有利だとか、キャリアアップだとか、そんな浮かれた話は一瞬で吹き飛んだ。

「これは、違法な召喚に応じたことへの、皆さんへの罰です。そして、これから先、あなた方を召喚しようと考える愚かな世界に対する、日本国からの重い、重い警告なのです」

文官はそう言って、深々と頭を下げた。その姿には、謝罪の念など微塵も感じられなかった。ただ、冷徹な国家の意思がそこにあるだけだった。俺たちの異世界冒険は、始まる前に終わり、そして莫大な借金だけが残った。これが、世界最先端の国民保護の、現実だった。

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